闇に魅入られし者

──────────序章──────────

「長瀬ちゃん。誰か死ぬよ」
 プリーストの月島瑠璃子がポツリと呟いた。
 ダンジョンへの入口。
 ワードナーの作り出した迷宮へと続く、石階段の手前で。
「え、縁起悪いこと、言わないでよっ!」
 前衛を受け持つ新城沙織が非難の声を上げた。
「瑠璃子さん、何か…聞こえたの?」
 6人パーティーのリーダーである長瀬祐介が、鋼の兜越しに瑠璃子の瞳を覗き込む。
「うん。聞こえたよ」
 わらべのように、瑠璃子は頷きつつ答えた。
「しくしくと泣く声が。どこか、遠くのほうから」
「…………バンシー。嘆きの精霊でしょうか」
 ビショップの法衣を纏う相原瑞穂が、胸の前で魔除けの印を切る。
「瑠璃子。それは、これから起こる事なのかい?」
 魔法の杖を握りしめ、妹に問いかける月島拓也。
 パーティーの輪に不安が波紋のように広がっていく。
「もう、今日は止めにしたほうが良いんじゃないの?」
 宝箱を開けるピックを弄びつつ、シーフの太田香奈子が溜息をついた。
 どんよりと曇った空。
 カラスが甲高く鳴きながら弧を描いた。
「大丈夫だよ、長瀬ちゃん」
 瑠璃子は祐介に振り向くと。
「何かあっても、私がちゃんと………この世に魂を呼んであげるから」
 無邪気な笑みを浮かべながら、クスクスと笑い出した。


──────────逃走──────────

 はぁ。
 はぁ。
 はぁ。
 ハァ。
 走る。
 走る。
 唾を飲み込み。
 走る。
 戦友に肩を貸しながら。
 金属の鎧が、けたたましい騒音を立てる。
 敵を引き寄せるため、本来なら戒めるべき行為。
 だが松原葵は、構わず走り続けた。
 このダンジョンから脱出するために。
 出口へと通じる、テレポート・ポイント目指して。
 パーティーは壊滅した。
 グレーターデーモンの奇襲によって。
 氷雪呪文の輪唱。大合唱。
 反撃のいとまもなく、次々と戦友が崩れ落ちた。
「雛山さん。あと、少しです」
「…………ん」
 雛山理緒は苦しそうに頷いた。
 兜越しに様態を見やる。
 体には酷い凍傷の痕。
 だが、葵にはそれを癒やす術がなかった。
『ねぇ葵。そろそろ転職したら? 戦士をこれ以上続けても、しょうがないわよ』
 無二の親友、来栖川綾香の忠告。
 心に重くのし掛かる。
 今、この場で敵に襲われたら………。
 スペラー(魔法詠唱者)を欠いたパーティーほど、もろいものはない。
 カティノの呪文で敵を眠らせる事も、モンティノで相手の呪文を封じる事も出来ない。
 現に苦しんでいる戦友の苦痛を、葵はただ見守るしかなかった。
 扉。
 木の扉が目の前に立ち塞がる。
 コレを越えない限り、テレポート・ポイントには辿り着けない。
 耳を当て、気配を覗う。
「雛山さん、開けますよ」
「はい」
 ふらつきながら、理緒は短刀を握り絞めた。
 苦痛に眉をひそめながらも、迎撃体勢をとる。
 少しでも生き残る可能性を高めるため。
 ダンジョンに潜り続けた経験と鍛錬が、悲鳴を上げる肉体に鞭を入れた。 
「開けます」
 ギギ……。
 重苦しい軋み音が、静かな石畳に響く。
 目を見開く二人。
 何も出てこないのを確認すると、お互いの顔を見合わせながら、ホッと溜息をついた。
 あの青い悪魔の姿がいない事を、神に感謝しつつ。


 ほんの数刻前の事。
 本来ならば、出現しない筈の敵が、何故かこのフロア(階)にいた。
 グレーターデーモン。
 高レベルの魔法を操り、その攻撃力は戦士に匹敵する最悪の敵。
 しかも、6体という大群での先制攻撃。
 最初のマダルト輪唱により、僧侶の神岸あかりと魔法使いの姫川琴音が。
 次に、魔法のダメージにより動きの鈍った綾香が、太い腕から繰り出される爪により薙ぎ倒された。
「逃げろっ!」
 リーダー、藤田浩之の叫び声。
 逃がすまじと追撃の詠唱を背に感じながら、逃走を開始。
 無事逃げおおせたのは、戦士の葵とシーフの理緒だけだった。


 カランッ!
 金属の跳ねる音が、狭い石室に木霊する。
 葵が振り向くと、鈍い光沢を放つブレードが床に転がっていた。
 理緒の愛刀。
 持ち主は呆然として、光る刃を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 腰を屈め、葵はそれを拾い上げた。
「松原さん………」
「はい、なんでしょう」
「もし、敵が現れたら、私を置いて逃げてください」
「何を言っているんですかっ!?」
「私、もう………利き腕が、動かない」
 裂けた右の革小手。
 そこから覗く、青く変色した指。
「足が動く限り、何とかなります」
 明るい声で返答しながら、葵は短刀を左手に持たせた。
「出口まで、もう少しの辛抱です」
 戦友を励ます。
 そして、不安で押し潰れそうな自分自信も。
 テレポート・ポイントまでの距離は、それほど遠くはない。
 だが、もし敵に遭えば…………。
 葵は首を振り、不吉な考えを頭から追い出した。
「行きましょう」
 再び肩を貸しつつ、前に足を踏み出した。
 ありとあらゆる神に、慈悲を乞いながら。
 ………もう、ほんの少し。
 あと、数分の辛抱。
 走る。
 走る。
 走る。
 喉が渇く。
 足が悲鳴を上げている。
 でも、止まれない。
 後ろから死に神が追いかけてくる。
 そんな、気がして。
 洞窟の中が、徐々に暗くなっている。
 もしかしたら、ロミルワの効果が低下しているのかも。
 葵は走りつつ不安を覚えた。
 普通ならば、洞窟を抜けるまで魔法の光が闇を明るく照らしだす。
 だが、もし呪文の効果が切れたら。
 僧侶呪文を操る者が亡き今、唱え直す事が出来ない。
 早く、一刻も早く地上に戻りたかった。
 幸い、満身創痍の理緒に比べ、葵の傷は少しずつ回復している。
 お守りに嵌めた回復の指輪。
 治癒手段のない葵の為に、綾香が送ったプレゼントだった。
 ………綾香さん。待っていてくださいね。必ず助けますから。
 心の中で呟きつつ、葵は具足に包まれた足を交互に出し続けた。


──────────贄──────────

「雛山さん、準備は良いですか?」
 最後の扉。
 ココさえ超えれば、もう出口は目の前。
 理緒が目で合図を送る。
 頷く葵。
 剣を握りしめながら扉を蹴り開けた。
 重く軋む音。
 目を凝らす二人。
 敵は?
 …………いない。
 ほっと胸をなで下ろしながら、部屋の中に足を踏み入れた。
「もう、ここまで来れば安心ですね」
 葵の声に、ようやく理緒が笑顔を浮かべた。
「松原さん。早く帰って、みんなを………」
 舌が、凍った。
「……ждзлл…ййиббдзл……」
 低い韻を踏む旋律。
 呪文の詠唱。
 声のする方向に、ハッと目を向ける。
 部屋の片隅。
 薄暗い闇の中に、黒いローブを羽織る者。
 葵と理緒が、同時に石畳を蹴った。
 魔法風が二人に襲いかかる。
 攻撃魔法、マダルトの冷気。
 急激に冷却される鎧。
 刺すような痛みが全身に走る。
 ガシャンッ!
 背後で理緒が倒れる音を聞きながら、葵は盾を捨て、両手で剣を握った。
 相手は、ハイ・ウィザード、ひとり。
 一撃で決めるっ!
 走る勢いを乗せ、葵はカシナードの剣を振り下ろした。
 ブレードが鋭く空気を切り裂く。
「なっ!?」
 斬った……と、葵は核心していた。
 太刀筋も完璧だった。
 確かに、剣の切っ先はローブを捉えた。
 だが、中身がない。
 斬ったのは、布きれのみ。
 葵は目を見張った。
 焦る。
 敵はっ?!
 兜の狭い視界が、敵の発見を妨げる。
 背後に迫る気配。
 急ぎ、振り返る。
 ザシュッ!
「がっ……」
 首筋に鋭い痛みが走った。
 鎧の隙間を突かれた。
 敵を視認いとまもなく、葵は剣を横一文字に薙ぎ払った。
 ズル…。
「アッ!!」
 小手から、柄の存在が消えた。
 ガッシャーンッ!!
 壁に叩き付けられる金属の刃。
「しまっ………ぁ………ぅ………」
 体が、動かない。
 指が。
 腕が。
 足が。
 舌が。
 葵の全身が痺れ、彫像のように固まった。
 絶望。
 葵は、悪魔の嘲笑を聞いたような気がした。
 モンスターによる麻痺攻撃。
 治癒してくれる者は誰もいない。
 ここまで連れ添った理緒は、冷たい床の上で事切れたまま。
 もう、葵にはどうすることも出来ない。
 後には待つのは。
 死、あるのみ。
 それも、苛烈窮まる死に様。
 葵は、意識を保ったまま、死を賜る。
 生きたまま食われるか。
 四股を引き抜かれ、じわじわと嬲り殺されるのか。
 それとも、慰み者にされ、弄ばれた末の死か。
 迫り来る自らの運命に、葵は恐怖した。
 カチ。
 カチャリ。
 防具の外される音がした。
 すでに、葵は指一本すら動かない。
 カチ……リ。
 突然、視界が開けた。
 頬を、ひんやりとした空気が撫でた。
 兜が床に転がる音を、葵は聞いた。
「ほぉ……。悪くはない」
 耳元に囁く低い声。
 首が回らない以上、声の主を見ることが出来ない。
 グイ。
 顎を掴む指。
 強引に振り向かせられた。
「ぁ………」
 葵は息を飲んだ。
 雪のように白い肌。
 太陽の輝きを凝縮した金髪。
 整った顔立ち。
 声を聞いていなければ、女と見間違えたかもしれない。
 目はルビーのように輝き、その紅い唇からは…………。
 二本の鋭い牙が覗いていた。
 ヴァンパイア。
 迷宮を住処とする吸血鬼。
 魔法を操り、精気を吸い取る不死の魔物。
 葵はこの化物の正体を知っていた。
 今まで何度か遭遇し屠ってきた。
 どれもみすぼらしく、やつれた容姿をした醜いものばかり。
 だが眼前の吸血鬼は、美しく気高く、高貴なる雰囲気をその身に漂わせていた。
 カチ。
 ガシャンッ!
 鋼の肩鎧。
 プレートの胸当て。
 石畳の上に金属音を立てながら落下していく。
 その様を、葵はただ黙って見守るしかなかった。
 甲冑が外され、露わになる肌着。
 紅く細く鋭い爪が小刀ように、体を包む布地を引き裂いた。
「………ぁ……ん………ぅっ」
 冷たく滑った空気が、葵の肌に直接触れた。
 剥き出しになる、小ぶりの乳房。
 外気に刺激されてか、ピンク色の乳首が固く尖った。
「…ぅぅっ」
 羞恥心。
 葵の目に、熱いのものが込み上げる。
 今まで、異性の目に晒した事のない身体。
 それがこんな場所で、しかもこんな相手に。
 こんな事になるならば………。
 葵の脳裏に、恋い慕う男の顔が浮かんだ。
「ふむ……」
 そんな心情などお構いなしに。
 葵を裸に剥いたヴァンパイアは、眼前の裸体に視線を走らせた。
 まるで美術品を品定めするかのように。
 ついで指を。
 首筋から乳房へ。
 乳房からへそへ。
 ゆっくりと。
 肌触りを確かめるながら。
 下へ。
 下へと。
 撫でて行く。
「ぃ………」
 葵は息を飲んだ。
 女性のように細い指先。
 その爪先が下腹部の茂みを掻き分け。
 肉襞の中へ沈み。
 ぢゅぷりと。
 じゅるりと。
 子を宿す大事な場所へ。
 深々と、埋め込まれた。
「ぁ…ぅっ、ぃ、ぃぁ……ぁ……」
 僅かに振動する声帯で、葵は泣いた。
 自由にならない体を身悶えさせながら。
 麻痺している為、痛みはない。
 しかし。
「ぅぁぁぁ……」
 胎内を侵食される異物感に怖気が走った。
 …ちゅぽ…。
 引き抜かれた指。
 葵はホッと息を漏らした。
 指に粘液と共に附着した赤い血、純潔の証。
 不死者は満足げに頷いた。
「喜べ………。選ばれし者よ。永遠の命と至高の快楽を、貴様はこれから手に入れるのだ」
 凛と響く声。
 葵は震えながら宣告を聞いた。
 もし、体が自由であれば、首を横に振っただろう。
 口が動いたなら、断固声を上げて拒否しただろう。
 悲しいかな。
 葵にはそのどちらも許されなかった。
「期待するが良い、素晴らしき未来を」
「ぃ…ぃぁぁ……」
 首筋にかかる冷たい息吹。
 誰か…助けて…。
 叶うぬ願いと知りながら、葵は祈り続けた。
 ズクッ!
「ひぁっ!」
 鋭い牙が、白い首筋に突き刺さる。
 吹き出す赤い血潮。
 ズル…。
 ズチュルルルル……。
「ひぃ…ぃぁぁぁぁぁぁ」
 吸われている。
 吸われている。
 体中の血液が吹き出していくようで。
「ふぁ…」
 熱い………。
 傷口が。
 赤く焼かれた釘を、差し込まれたように。
 パラライズにより痛みはない。
 その代わり………。
 首筋から肩口へ。
 肩口から、乳房、へそ、下腹部へと。
 先ほど指が通過した順に。
 甘く。
 ちりちりと。
 心地よい痺れが体中を埋め尽くしていく。
「はふっ…。ひぃぁ、ふぁあああぁぁ……」
 口から溢れていた悲鳴が。
 いつの間にか悦楽に浸る吐息へと変わっていた。
 魔女の釜底で悶える恐怖から。
 母親の胸もとで抱かれる安らぎへと。
 白い、乳白色の海に漂うような。
 満ち足りた、至福の世界。
「はぁ…。きもち…いい……」
 指が動く。
 舌も、口も。
 いつの間にか、肉体が意のままに動いていた。
 ズル……。
 引き抜かれる牙。
 もっと、吸って欲しい………。
 心地よい余韻に浸りながら、葵は思った。
「貴様の名前は?」
 ヴァンパイアは口元を拭いつつ、僕(しもべ)へと問いかける。
「……松原、葵です」
 新たなるマスターの要請に、葵は忠実に従った。
「葵よ。新しき世界は気に入ったか?」
 目を開け、周りを見渡す。
 暗いはずの石室が、昼間のように明るく見えた。
 闇の冷気がとても心地好く。
 心も平穏に満ち足りていた。
「………とても、良いです」
「ふむ……」
 意図した解答に、質問者の口元が満足げに緩んだ。
「聞け、新しき同胞よ。人間とは下らぬ生き物だ。日々己の煩悩に苦しみ、日々糧を得る事に大半を費やし、肉体は老いやすく、僅か数十年で死を迎える。 つまらん生き方だと思わんか?」
「はい。そう、思います」
「我らが不死の眷属は、過ぎゆく日々を数える事なく、永遠に、快楽に満ち足りた時を過ごすのだ」
「…………とても、素晴らしい事だと、思います」
「葵よ。貴様に友はいるか?」
「はい……」
「我らの同胞になりうる、純潔の友はいるか?」
「はい……います」
「ならば、汝のすべき事は何だ?」
「私のお友達にも、この素晴らしい世界を…………」
 呟きながら、葵は微笑んだ。
 その口元には、小さき二本の牙が覗いていた。


──────────暇──────────

「今度も私の勝ちや」
 ウィザードマスターである保科智子の声に、メンツ一同の顔が引きつる。
 倒されるカード。
 3枚の合計数は20だった。
「もってけ、泥棒」
 サムライの柏木耕一が、目の前の金貨を胴元に押し出した。
 黄金色に輝くコインの山が金属の音を立てて転がる。
 窓の外からは激しい雨音。
 ランプの灯る酒場のテーブルを囲み、4人の若い男女がカード遊技に興じていた。
「あそこで止めとけば良かったわ………」
 戦士である坂下好恵も眉間に皺を寄せつつ、コインを智子に差し出した。
 ただ一人、ビショップの来栖川芹香だけは無言のまま。
 もっとも彼女は初期に賭けから降りた為、被害は無いに等しかった。
「おおきに」
 にっこりと笑いつつ、智子は掻き集めた金貨を数えた。
 古代エルフ人が作りし一品、視力矯正用マジックアイテム『眼鏡』を覗き込みながら。
 テーブルに積まれたコインの山が、親の一人勝ちである事を雄弁に語っていた。
 その大金ぶりに周りの客がチラリチラリと視線を向ける。
 合計額は、一般庶民が半年間は楽に遊んで暮らせる額へと達していた。
 ここは冒険者の酒場。
 世界を放浪してきた腕っ節に自身が有る者の溜まり場。当然ながら、傭兵や山賊まがいの連中も少なくない。
 しかし誰一人として、その大金強奪を企む者はいなかった。
 いるとすれば、この酒場に 初めて足を踏み入れた新参者にだろう。
 無論手を出せば、その者は身をもって己の浅はかさを思いしる事になる。
 なぜなら、この部屋の隅でテーブルを囲む4人こそ、現在ワードナー討伐の最有力と言われている、パーティーのメンバーだからだ。
「もう1回勝負よ」
 舌打ちをしながら、好恵はカードも配られぬウチに最初の掛け金、金貨4枚をベットした。
「他の人どうすんや?」
 智子がカードを握りながら、残りの2名に目配せする。
「当然やるに決まっているだろ。暇だからな」
 耕一も同じく4枚。
「…………」
 芹香もそれに習った。
 ワードナー討伐に向かうメンバーは通常6人。
 耕一のパーティーは、他のメンバーが現在休養中。
 戦士系の傷は魔法によりすぐ全快するものの、呪文詠唱を中心とする術者は疲弊した精神の回復に幾ばくかの時間を必要とする。
 パーティーが完調するまでの間、前衛を受け持つクラスは暇をもてあますのが常だった。
「ほな、やるで」
 手慣れた手つきでカードが親から配られる。
 ゲームの内容は極めてシンプル。カードに書かれている合計数字が21に近ければ勝ち。
「もう1枚、どうや?」
 最初に配られるカードは2枚。だが、3枚目追加すれば合計数が21を越える場合がある。そうなると、その場で負けだった。
 耕一は指を1本立てた。
 一枚伏せられたまま、宙を舞うカード。
 芹香は首を左右に振りカードを伏せた。もう、追加はいらないという意味である。
「坂下さんは、どうするん?」
「……ん」
 現在、好恵のカード合計は15。
 このままだと負ける可能性は高いが、カードを引けばオーバーする確率も半々だった。
 暫く悩んだ後、
「後、一枚」
 運を天に任せた。
 送られて来たカードの数字は5。
 好恵は賭けに勝った事を確信した。
 負けるとすれば、最上位の21以外ありえない。
 口元に不適な笑みを浮かべつつ、好恵は口を開いた。
「掛け金、追加よ」
 手元の金貨に、4枚追加し倍額にした。
「強気やねぇ」
 親の智子がそれに応じる。
 耕一も、同じく4枚上乗せした。
 チャリン。
 硬貨が2枚、智子の元に送られる。
「…………」
 芹香は残りの金貨2枚を手元に引き寄せた。
 それは、今回のゲームから降りた事を意味していた。
「じゃ、私も倍掛けや」
 更に8枚に増やされる金貨。
 一度誰かが掛け金を倍増すると、他のメンバーも倍額にしなければならない。
 耕一は悩みつつ、それに応じた。
「受けるわよ」
 同じく8枚、合計16枚にする好恵。
 そして更に。
「追加よ」
 さらに16枚継ぎ足した。
 この回で、負けた分を取り戻す為に。
「なぁにぃ〜」
 頭を掻く耕一。
 涼しげな顔で、ベットする智子。
「くぅ………おりた」
 溜息を付きつつ耕一は8枚金貨を親に差し出した。
 それと同時に、通りがかったホビットにエールを注文する。
「あまり飲み過ぎると、千鶴さんに叱られるで」
 智子がそれとなくなく耕一に苦言を呈す。
 この4人のメンバー、実は遭難したパーティーの救援要員を兼ねていた。
 いざという時は、仲間を捜しにダンジョンへと降りなければならない。
 とはいえ、個人の技量が上がり全滅する事も希(まれ)になり。なおかつ、転移の呪文が使えるようになった今、以前に比べかなり楽になっていることも事実だった。
「これくらい平気さ」
 運ばれて来たエールに口を付けつつ耕一は答えた。
「保科さん、勝負よ」
 好恵が不敵な笑みを浮かべつつ胴元を見やる。
「ちょい待ち」
 智子が出鼻をくじいた。
「降りるの?」
「ん、ちゃうよ」
 おもむろに掴む金貨。
「ベットや」
 ジャラジャラと金貨が盛大な音を立てた。
 合計64枚の金貨。
 好恵の眉毛がぴくりと動いた。
「い、いいわよ。じゃ、私も更にベット!」
 負けじと好恵も革袋から宝石を、それだけで通常の金貨100枚分に匹敵するルビーを、 金貨の上に乗せた。
 合計128枚分。
「さぁ、勝負よ」
 意気込む好恵。
 だが、智子は首を横に振った。
「もしかして、降参?」
「まさかぁ」
 クスリと笑った。
「倍付けや」
「……え?
「更に、倍付けや」
 紫のシルクの袋からこぼれる宝石が二粒。
 好恵はそれに応じつつ唾を飲んだ。
 まさか………。
 相手の持ち札は21では。
 遠目に見ている他の客も、コチラの成り行きを見守っている。
 現在の合計金貨256枚分。
 駆け出しの冒険者にとっては大金。
 上級者の好恵達にとって大した金額ではではないのだが…………。
「ん? 降りるんか?」
「いや……」
 好恵も金貨を数えつつ同額を用意する。
 コチラは20だ。まず負ける事はない。だけど………。
 心の片隅に沸き出した黒い陰りが、夏の夕立をもたらす積乱雲の如く急速に広がり出す。
 負ける可能性は、低い………筈。
 心の動悸が、心なしか早くなる。
 ようやく好恵が金貨256枚分を用意し終えた時、
「ベット」
 智子は静かに宣言した。
「もう一回、倍付けやっ!」
 その言葉に、周りで見ていた観客も色めきだった。
「さ、さらに倍付けっ?!」
 それは合計枚数、512枚を意味していた。
「なんかなぁ………。負ける気せぇへんのやぁ〜」
 にこやかな会話に、含みを持たせた笑み。
 好恵の頬が引きつる。
 心の中を覆う暗雲に落雷が轟き始めた。
「坂下さん」
「な、なにか…」
「なんなら、更にベットしても……私はかまへんで」
 更にベット、つまり1024枚。
 好恵は確信した。
 相手のカード合計数は、21に間違いない。
「……おりた」
「ん? 聞こえへんで」
 智子が首を傾け、耳に手を当てる。
 小悪魔がダンスを踊るが如く、とても楽しそうに。
「もう、降りよっ、降りたのっ! 私の負けよっ!!」
 耳を傾けていた酒場の連中が、ドッとどよめいた。
「ほな、128枚分もらうけどええな?」
「……いいわよ」
 溜息をつきつつ好恵は答えた。
「坂下さん、カードの数字は何だったの?」
 耕一が興味深げに覗き込む。
「20よ」
 パタリとカードを裏返した。
「保科さんは?」
「ん、私のカード?」
 2枚のカードが捲られた。
「18や」
 肩をすくめつつ、智子はお惚(とぼ)けた。
「ぇええええっ!!」
 絶叫を上げる好恵。そのまま、テーブルに突っ伏した。
 耕一は笑いつつ杯を上げた時、先ほどエールを運んだホビットが、コチラに向かって走って来るのを見た。
 腰にエプロンを結んだホビットは、耳を貸すよう手招きをした。
 相手の身長に合わせ腰を屈ませる耕一。話の内容を聞くや表情が急変した。
「どないしたん?」
 智子が金貨を数えつつ問いかけた。
「ゲームは終了だ」
 その低い言葉に、好恵と芹香が顔を上げる。
「何かあったの?」
 好恵は耕一の心情を素早く読み取った。
「浩之のパーティーが遭難したらしい。松原さん、一人を除いて」


──────────勧誘──────────

 酷い雨。
 好恵は泥の水たまりを避けつつ先を急いだ。
 葵はどこ?
 衛兵の立つダンジョンへの入口。
 雨よけの下で燃やされた松明(たいまつ)の明かりが、周りを赤く照らし出す。
 いた。
 建物の壁。
 雨宿りをしている。
「葵っ!」
 手にした雨具を広げつつ、好恵は友のもとへと駆けた。
「大丈夫っ?! 他の人達は?」
 葵は下を向いたまま緩慢に首を振った。
 傷ついた鎧。
 引き裂かれた衣服。
 精気のない顔色。
 好恵は起きた惨劇の大きさを予想しつつ、水を弾くよう油でコーティングされたローブを広げ、葵にすっぽりと被せた。
「歩ける?」
「好恵さん……」
 呻き声のような囁き。
「なに?」
 好恵は聞き逃すまいと耳を近づけた。
「大事な……話しが、あります……」
「大事な話?」
 こくりと葵は頷いた。
「……とても、重大な話しが。でも、ここでは……………」
「わ、判ったわ」
 二人は雨具を羽織り、その場を後にした。
「こっちです……」
 葵が向かうは町はずれ。
 人気のない場所。
「どこまで行くの?」
 好恵は不安になった。
 夜間、それも雨の降る日に。
 盗賊の類(たぐい)に襲われたら………。
 念のため剣を帯刀しているとはいえ、多勢で来たらどうなるか判らない。
 城壁の外、人気のない場所で葵の足が止まった。
 好恵は周りに目を配らせた。
 怪しい気配はない。
 無論、雨の降りしきるなか、あまり自分の勘をあてに出来ない。
「一体、重大な話しって何なの?」
「……ごめんなさい。人に聞かれたくなかったから……」
 葵は耳を貸すよう手招きをした。
 顔を近づける好恵。
 その肩をぐっと握ると、葵は耳元に唇を近づけた。
「好恵さん。永遠の命……知っていますか?」
「永遠の命? 不死…ってこと?」
「そうです。美しい姿のまま、歳を取らずに生き続ける。素晴らしいことだと思いませんか?」
 閃光が突然辺りを包んだ。
 大気を震わす重低音。
 雷が近くに落ちた。
 横殴りの雨。
 フードからしたたり落ちる水滴。
 僅かな隙間から進入する雨粒が好恵の体を冷たく濡らす。
 そして………。
「好恵さんは、永遠のいのち……欲しいとは思いませんか?」
 耳元で囁かれる言葉が、心を寒く凍えさせていた。
 おかしい……。
 訓練所にいた頃から、共に剣を携えて来た同胞の豹変。
 背中を走る冷たいものは、雨のせいだけではなかった。
 長年の勘が警鐘を鳴らしていた。
「好恵さん、欲しいとは……思いませんか?」
「そ、そうね」
 好恵は相手に逆らわず適当に相づちを打った。
 パーティーの全滅を、まの当たりにした為、精神が失調しているのだろう。
 実際に冒険者の中では良くある話しだった。
「永遠の命なんて、あったら素敵かもね」
 相手を気遣い好恵は話しを合わせた。
 それが、契約書のサインである事を知らずに。
「少し、我慢してくださいね……」
 肩を握る力が強くなった。
「あおい…?」
 ザシュッ!
「なっ!」
 首に走る突然の激痛。
「あっ、葵っ!?」
 好恵は何が起きたのか理解出来なかった。
「やめ…」
 葵を突き飛ばそうとして……腕が動かない事に気がついた。
 パラライズ。
 首筋から走る熱い痺れが、瞬く間に全身へと広がっていく。
 熱く赤い液体が、勢いよく噴き出す。
 吸われている。
 血が吸われている。
「や……め………」
 生命の炎まで吸い取られているような錯覚。
 コレと似たよう事が、以前に………。
 エナジードレイン。
 好恵は薄れ行く意識の中、自分が今されている事を記憶の海から探り出した。
 アレは数ヶ月前、ヴァンパイアから……。
『永遠のいのち……欲しいとは思いませんか?』
 葵が口にしたアノ言葉の意味は……。
 朦朧とした熱い奔流。
 好恵の意識は徐々に埋没していった。
 深々と肌に打ち込まれた二本牙。
 乳首を貪る赤子のように、葵は噴き出す血を吸い続けた。
 おいしい。
 甘いようでコクがあって。
 始めて口にする血の味を、舌の上で転がすように味わった。
 ずるり……。
 牙を引き抜くと同時に、好恵の体重が重くのしかかる。
「好恵さん、起きてください」
 ゆさゆさとその肩を揺すった。
「これで仲間ですよ。これから一緒に永遠の時を過ごすんですよ」
 起きる様子がない。
「最初は戸惑うかもしれませんが、じきに………」
 開いた瞳孔。
 停止したままの呼吸音。
 呼びかけても答えず。
 口は開いたまま。
 手足も動かぬまま。
「好恵さん……」
 ものを言わぬ屍。
「純潔じゃないなんて、好恵さんに恋人がいたなんて、私は聞いていませんよ」
 葵は動かぬ体を、いつまでも揺すり続けた。
 寂しげな瞳で、親友の顔を覗き込みながら。


──────────会議──────────

「グレーターデーモンだってぇ?」
 ゲッソリとした顔で、柏木梓が短い前髪を掻き上げた。
「あたしの剣、簡単に弾れたんだよね。この間」
「……そうね。私の魔法もレジストされたわ」
 梓の姉、四姉妹の長女である柏木千鶴も同調するように首をすくめた。
「葵ちゃん。敵と遭遇したのは、このあたりなんだね」
 従姉妹の呟きを聞きつつ、耕一はダンジョンのマップに指をさす。
 その場所を四姉妹の三女、シーフの柏木楓と、同じく四女、プリーストの柏木初音が、思案をしつつ見守った。
「……はい。そこです」
 深々とローブを被った葵が、身体を震わせながら頷いた。
 傷は初音の回復呪文、マディにより癒えているものの、蒼白な顔色が体力の疲弊を物語っていた。
「そして、雛山さんとはぐれたのが、この辺りと………」
 耕一が地図の上に目印の針を刺していく。
「変やなぁ……。そのフロアにグレーターデーモンが居てるなんて、初耳やで」
 智子の声に各視線が交錯する。
 この場にいる8人が皆同じことを思っているらしい。
「ふぁ…」
 眠そうな初音の欠伸。
 酒場にいた者以外は、ベッドから叩き起こされたばかりだった。
「初耳であろうと居たのは事実だ。そうなると………救援パーティーも、いつも道理というわけにはいかんなぁ」
「ほんまや、死体回収のため、最低一人は欠けなアカンし」
 耕一と智子の溜息が重なった。
 通常、パーティーが全滅した場合、その死体を回収する為ダンジョンに潜る必要がある。死体も一人と数える為、必然的に定員の6人からメンバーを減らさなければならない。
 転移の魔法を使える今、いつもなら4人パーティーが3回往復すれば事は済むのだが。
「5人おらんとキツイんちゃうか? ヘタしたら二重遭難やで」
 敵は、最強の部類に入る青き悪魔。
 6人でも立ち向かうのが難しい敵に、定員未満で事に当たる厳しさ。皆一同に頭を悩ませた。
「祐介達、無事だと良いんだが………」
 葵と入れ違いに出発した、長瀬祐介のパーティー。
 彼らは、グレーターデーモンの情報を知らない。
「大丈夫ですよ、耕一さん。月島さんを始め、みんなしっかりしていますから」
「そうだね」
 一度ダンジョンに潜った者に連絡手段はない。
 今は、千鶴の言うように個人の力量を信じる他なかった。
「えーっと、今、いるのが……」
 梓が現状のメンバーを見回す。
「戦士があたしを含め三人、サムライ、シーフ、ビショップ、プリースト、ウィザードが一人ずつ。あと、なんちゃってロードが一人か」
「ちょっと、梓っ! 『なんちゃってロード』って何よっ!」
 千鶴が妹の言葉に憤慨した。
「はぁ? 本当の事だろう。魔法使いの呪文を極めた後、なんでよりによって、ロードになんか転職すんのよ。ただでさえ、ドンガメで不器用な千鶴姉が前衛なんかに来るもんだから、あたし達は連携がとれなくて苦労してんだから」
「それは、その………。まだ転職したてで経験が浅いし……」
「そんなに経験積みたきゃ、ウィズボールでもやったら? そもそも、いつから悪の戒律がロードへ転職可能になったのよ」
「……………梓ちゃん。今、何か、言った?」
「お、お姉ちゃん達、やめてよぉ〜っ!」
 末っ子の初音が、たまらず姉の喧嘩に割って入った。
「姉妹喧嘩は、また今度にしてくれへんか?」
 参謀長役の智子も渋い顔。
「耕一さん。リーダーなら、たまにはビシッと言わなあかんのと、ちゃうの?」
「…………面目ない」
 申し訳なさげにポリポリと耕一は頭を掻いた。
「とにかく、5人で行くしかない」
「誰を連れて行くんや?」
 眼鏡をかけ直しつつ、智子が再度マップを見つめ直した。
「松原さんは少し休んだ方がええで………。気持ちは判るんやけど」
「………そうですね」
 細い疲弊した声で葵は答えた。
「メンバーだが、まず俺。次にプリーストは欠かせない」
 耕一の言葉に、初音が大きく頷く。
「あたしは?」
 梓がリーダーに問いかける。
「お前がいなきゃ、前衛が足りんだろうが」
「うしっ! 腕が鳴る」
「あと、前衛として楓ちゃん」
 コクリと無言で頷く楓。心なしか口元に笑みが浮かんでいた。
「ほな、最後の一人は私でええな」
「あぁ、頼む」
 智子がクスリと笑い、5人のメンバーが決まった。
「…………あの、私は?」
 人選に漏れ、目をパチクリしながら呆然とする千鶴。
「千鶴姉は、お、留、守、番。転職したてのビギナーなんて、危なくて連れて行けないでしょ」
「そ、そんなぁ〜」
 年甲斐もなく幼児のように地団駄を踏み鳴らした。
「千鶴さん。判ってるやろ? 一人は転移の呪文を唱える者が、残っとらなあかんことくらい」
「そ、それは……」
 心の中を智子に見透かされ、ばつの悪い表情を千鶴は浮かべた。
「もし、ウチらまで全滅したら、誰かがパーティーをまとめ地下に潜る事になる。その役、千鶴さん意外に誰が出来るんや?」
「別に、保科さんでも…」
「私は無理や。無責任な事なら、いくらでも言えるんやけどなぁ」
 おどけつつ智子は両手を振った。
「私がリーダーの器やないことくらい…………。誰よりも、自分が一番よう判っとるよ………」
「…………………」
 不本意でありつつも、千鶴は自分が残留する以外、方法がない事を認めた。
「なぁ、耕一さん。もしもやけど………」
 智子の質問に、皆が耳を傾ける。
「もし、ウチらの前にもグレーターデーモンが6体出たら、どうする気や?」
 シンと場が静まりかえる。
 皆、心の中で予想している最悪の事態。
 視線が、リーダーである耕一に集中する。
 重苦しい空気の中、耕一は口を開いた。
「マハマン……の魔法を使うしか、あるまい」
 マハマン、大変異の魔法。
 神に助けを乞う、最大秘術の一つ。
 だがそれは、唱えた者に多大なる犠牲を強いる諸刃の呪文だった。
「あはっ! あははははっ!」
 智子は声を上げて笑った。
「流石、ウチらのリーダーや。コッチの苦労も知らずと、簡単に言うてくれる」
 眼鏡を外し、笑い涙を指で拭った。
「…………ええよ。唱えたげるよ。禁呪のマハマン。実は私も、それ以外に方法はないなぁと思ってたところやし」
 私がリーダーやったら、とても命令できへんやろうなぁ………。
 智子は自分の置かれている立場に、なぜか軽い満足感を覚えた。
「これで決定………だな」
 耕一は壁に掛かる告知板の釘に、5人の札を下げた。
 これを見れば、今、誰がダンジョンに入っているか一目で判る。
「残るメンバーは、四人か」
 もし、耕一達が戻ってこなければ、必然的に留守番組が第二陣となる。
「なぁ、さっきから気になってたんやけど…………。坂下さんは、どうしておらへんの?」
 訳を聞くように、智子は葵を見つめた。
「松原さんは、坂下さんと会ったんやろ?」
 問いかけに対して、葵は小さく首を振った。
「なんで一緒に帰って来んかったん?」
「さぁ………。何か、用事があるからと、言っていましたけど」
「途中で別れたん?」
「………はい」
 無言のまま、智子は腕を組んだ。
 この真夜中に。
 どこへ。
 喉に刺さった小骨の如く気になった。
「耕一さん。ゲームしてる時、何も言うてへんかったよねぇ」
「あぁ。特には聞いてない」
「………」
 芹香もフルフルと首を横に振った。
「まぁ、朝までには帰って来るだろう」
 ………来るんやろうか。
 何故か。
 帰って来ないような気が、智子にはした。
 理由は判らない。
 ただ、漠然とそんな気がした。
「日の出とともに出発する。各自、準備してくれ」
「耕一お兄ちゃん、カンディの呪文はいつ唱えるの?」
 ダンジョンに死亡した者の位置を特定する、カンディの呪文。
 プリーストの初音としては、休む前に唱えて置きたかった。
「カンディは、出発前に芹香さんに唱えて貰う」
「………」
 了承と言うように、コクリと芹香は頷いた。
 耕一の解散を合図に、各々部屋へと戻っていく。
 だが、智子は壁を背にしたまま動かなかった。
 顎に指を当てながら。
 部屋から出て行く葵の背中をじっと見つめた。
 窓の外からは、激しい雷雨の音。
 気になるのは、好恵の行動、ただ一点。
 智子は、彼女の性格を良く知っている。
 時間に厳格で、規律や礼を何より重んじる気質を。
 己の用件を優先させ、この大事な作戦会議に出席しないとは、到底考えられない。
 もしかしたら。
「………来れへん理由が、あったんちゃうか………」
 思いが、ふと独り言となって口から漏れた。
 気が付くと、部屋に残っているのは芹香と智子だけになっていた。
 紙の擦れる音。
 シャッフルする音。
 ぱたり。
 ぱたりと。
 芹香の手元からカードがテーブルの上に撒かれていく。
 ゲーム用ではない。
 占術の為に作られた特殊アイテム。
 人、建物、神、悪魔。カラフルに彩色されている。
 自然崇拝のノームの神官により作り出された物だと、智子は以前聞いた。
 机の上に十字に配置されたカード。
 それを前に、芹香は口元に手を当て思案していた。
「…………芹香さん。なにか、判るん?」
 普段、物静かで表情を顔に出さない芹香。
 僅かに動く眉毛から、智子はその感情を読み取った。
「………」
「なんやて?」
 小さな声を聞き逃すまいと、智子が歩み寄る。
「………」
「死に神を友とする使者? 崩壊? 誘惑?」
「………」
「大いなる……災いを、呼ぶ者?」
 智子の声に、コクコクと頷く芹香。
「それは、誰のことなんや?」
「…………」
 芹香の表情が曇る。
 言わんとすることは、智子にも判っている。
 浩之パーティーの壊滅。そして、たった一人の生存者。
 グレーターデーモンが出現したと葵は証言した。
 しかし、それを裏付ける証拠は何もない。
 もしかしたら……………。
 智子は頭の中で、ありとあらゆる可能性を弾き出し、仮定し、否定し、削除し、推理を重ねた。
「………」
「え? 嘘…やろ」
 芹香の発言に、智子は一瞬、耳を疑った。
「………」
「松原さんが、別人のように………思えた?」
 念押しするように芹香は頷いた。
 ………確かに。
 落ち込んでいるとはいえ、様子が変である事に智子も薄々気付いてはいた。
「………」
「多分、ダンジョンの中で、何かあったのでしょう?」
「………」
「これから、松原さんに会って、話しを聞いてきます?」
 最後に大きく首を縦に振ると、芹香は椅子から立ち上がった。
「ちょい待ち」
「?」
 智子の制止に、芹香は首を捻った。
「もし、本当に何かあるんなら、それを話すのは危険ちゃうか?」
 そもそもアレは、葵本人なのか?
 疑いが波紋となり、際限なく広がっていく。
「………」
「いや、耕一さんに話すのは、まだ早いやろ」
 芹香の提案に智子は頭を左右に振った。
 今のところ、証拠は何もない。
 すべて、今の状況を推理した机上の空論に過ぎない。
 そもそも、仲間に嫌疑をかけること自体、本来慎むべき行為なのだ。
「ん………。そうか………」
 名案が、智子の浮かんだ。
「芹香さん。カンディの呪文、唱えてくれへん?」
「………」
「いや、そっちじゃなくて……」
 智子は呪文で探す範囲を芹香に耳打ちした。


──────────禁忌──────────

 屋根に激しく打ち付ける雨。
 暗く湿った室内。
 ポタリ、ポタリと雨漏りの音。
 部屋にはベッドが二つ。
 葵はシーツの上で膝を抱えながら、持ち主のいないベッドを見つめた。
 数日前までは………。
 葵は好恵と過ごした日々を、ぼんやりと思い出していた。
 二人が初めて会った日のこと。
 共に訓練所で汗を流した日のこと。
 初めてワードナーのダンジョンに足を踏み入れた日のこと。
 そして…………。
 つい数刻前に、その親友を死に至らしめたこと。
「………好恵さんが、悪いんですよ」
 あの時の言葉を、葵は再び口にした。
 コンコン。
 木の扉がノックされる。
「入るで」
 葵が返事をするより早く扉が開かれた。
 ランプの光が闇夜を追い払う。その眩しさに葵は顔をしかめた。
「お休み中、邪魔してすまへんな」
 智子が頭を下げつつ謝罪した。
「……なにか、私に用ですか?」
 呟きつつ、葵は毛布の中で身構えた。
 警戒した。
 自分が、吸血鬼であることを隠す為に。
 もしバレたなら………。
 パラライズ効果を打ち込むべく細長く変化した爪。
 飛び掛かる間合いを注意深く計った。
「別に、用件というほどでもあらへん」
 智子は否定するように片手を左右に振った。
「ちょっと、お願いがあるだけや」
「……お願い?」
「芹香さんが、これから降霊術をするんやて」
「降霊術?」
 葵には初耳だった。
 もっとも、精霊や魔術に詳しい芹香が、降霊術をしたとしても不思議はないのだが。
「今、ダンジョンの中で、何が起こっているか判らんやろ?」
「……えぇ」
 相槌を打ちつつ、葵は悪い予感がした。
「雛山さんの霊を呼んで、話しを聞いてみる事にしたんや」
「………雛山さんを、ですか?」
「そうや。幽霊にしか判らん情報もあるやろうしなぁ」
 幽霊にしか、判らない情報。
 まさか、ヴァンパイア・ロードとの会話を聞かれていたら。
 葵は思わず唾を飲み込んだ。
「なんでも、降霊術をしている最中は、部屋に誰も入って欲しくないんやって」
「………判りました」
「ほな、頼むで」
 その言葉と共に、扉が音を立てて閉まった。
 部屋の中が、再び深い闇に包まれた。


──────────儀式──────────

 廊下にただ一個灯されたランプ。
 それが、ただ一つの明かりだった。
 闇の眷属となった葵にとって必要の無い代物。
 むしろ邪魔なくらいだった。
 軋む木の廊下を一歩一歩進む。
 奥のスィートルーム目指し。
 各部屋からイビキが聞こえる。
 夜明けまでは、まだ時間がある。
 やるなら、今しかない。
 念の為部屋の番号を確認すると、葵はゆっくりドアノブを引いた。
 音を立てつつ開けた僅かな隙間に、周りを警戒しつつ足を踏み入れた。
 広い部屋。
 葵が借りている場所に比べ倍の空間がある室内。
 ほんのりと蝋燭の光。
 床の上に描かれた魔法陣。
 芹香が部屋の隅に座っていた。
 他には………誰もいない。
 素早く周囲に目を走らせた後、葵は部屋の主へと近づいた。
 呪文を止め、侵入者を見上げる芹香。
 文句をいうでもなく、無言のまま葵の顔を見つめた。
「芹香さん。永遠の命に………興味はありませんか?」
 仲間を作るため。永遠を共に過ごす友を作る為。
 処女であろうと予想する芹香に。
 葵は微笑みを浮かべながら近づいた。
「芹香さんは、生きる苦悩から脱却し、永遠の至福を得たいと思いませんか?」
 何も表情を浮かべぬまま、湖面に浮かんだ月のように、静かに芹香は座していた。
 葵の言葉に耳を傾けるように。
「死を恐れることなく、思うがままに生きてみたいと、思いませんか?」
 あと、少し。
 間合いを詰めていく。
 ローブの中に隠した爪。
 一気に芹香を麻痺させ、血をすする。
 その甘美な味わいを思い浮かべるだけで、背筋がゾクゾク期待に震えた。
「何も、怖くありませんよ」
 あと………一歩。
「すぐに済みます、から」
 葵は床を蹴った。
 獲物目掛けて。
 腕を芹香へと突き出した。
 バチンッ!!
 目標の僅か手前で、見えない壁に爪が弾かれた。
 次いで強い衝撃が全身を貫いた。
「なっ!」
 慌てて、背後へと跳んだ。
 バシンッ!!
 再び、背中に殴られたような激痛。
「がはっ…」
 葵は床の上にひれ伏した。
 手をついた場所が光っている。
 模様。紋章。三角と円陣が何重にも描かれていた。
 ハッと周りを見やる。
 自分が魔法陣に囚われていることを、葵は直感的に悟った。
「危ないところやったなぁ。芹香さん」
 第三者の声。
 二人しかいない筈の部屋。
 声のする方を葵は見た。
 ただの壁。
 誰もいない。
 だが、良くみると、薄く人の形が見えた。
 突然、クスクスと楽しそうな笑い声。
「まさかこんなところで、ソピックの魔法が役にたつとはなぁ」
 ソピック、術者を透明にし敵の攻撃から身を守る呪文。
「4回も唱えれば、そう簡単には見えへん」
 智子の声に、葵は罠に落ちたことを知った。
「くっ!」
 跳躍し、魔法陣から脱出を計る。
 バチンッ!!
 虚しく、三度(みたび)弾き返された。
「破れへんよ、闇に取り込まれた者には。パーティーでキャンプをする時に使う防護用の結界を、逆に張ったんや」
「ど、どうして…」
「カンディの魔法を使ったんや。範囲を街の郊外に絞って」
「あ……」
「坂下さんを殺したのは、失敗やったな」
 うっすらとソピックの効力が弱まり、徐々に智子が姿を現した。
「まさか……ヴァンパイアになって戻って来るとは、思わへんかったで。識別の為、ラテュマピックの魔法を使わんかったら。きっと騙されたままやったろうなぁ」
 葵はぐぅの音も出なかった。
「なぁ葵さん。もしかして藤田くんも…」
「ち、違います。アレは本当に、グレーターデーモンに襲われたんですっ!」
 急ぎ否定する葵。
 智子はそれを、哀れみの目で答えた。
「………なんで坂下さん、殺したん?」
 放たれた一言が、葵の胸にサクリと突き刺さった。
「…あ、アレは……」
「あんたら、仲の良い親友やったんやろ?」
「殺すつもりなんて無かったんですっ! 本当ですっ!」
 身の潔白を主張する葵に、智子はゆっくり首を左右に振った。
「…………もう、信じられへん………」
 智子は寂しげに呟くと、芹香に目で合図を送った。
「……лл…ййлл…бййлл……」
 芹香の口から紡ぎ出される祝詞(のりと)。
 その意味を知り、葵は戦慄した。
 デスペル。
 僧侶と司祭のみが使える、不死の眷属を母なる大地へと返す儀式。
「松原さん。今まで、ありがとうな………。ほんまに………楽しかったで」
「い、いやぁ…」
 ふるふると、葵は首を横に振った。
「一度不死になった者を、人に戻す方法なんて存在せぇへん。だからな、せめてウチらの手で………」
「…まだ、死にたく…な………い………」
 泣きながら哀願する葵。
 体が崩壊していく有様を、智子は直視し続けた。
 それが友に対する、最後の責務とばかりに。
 目から涙を零しながら。
「……た……す…………け………………………………」
 デスペルの最後の祝詞が、鎮魂歌のように室内に満ちていった。
 葵の体が砂となり、次いで煙のように霧散化していく。
 ファサリ……。
 羽織っていたローブが魔法陣の上に落ちた。
 後に残ったのは衣服のみ。
 それすらも、智子が触るとボロボロに崩れ落ちた。
「これで、良かったん?」
 目元の涙を拭う芹香に、智子は振り向いた。
「ほんまは私が、ジルワンの魔法を使うつもりやったのに」
「………これで、良いんです………」
 智子の耳にハッキリ聞こえる声で、芹香は答えた。
「なぁ、芹香さん。ひとつ質問してもええか?」
 何でしょうと、芹香は首を傾けた。
「永遠の命。手に入るんなら欲しいと思う?」
 葵の誘惑の声。
 もし、ヴァンパイアであることに気付かなければ、どうなっていただろう。
 芹香は暫く考えた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「………」
「なんやて?」
 慌てて耳を近づける。
「………」
「こんな地獄の底のような世界で、永遠の命なんて欲しくありません?」
「………」
「どうせなら永遠にすごすなら、天国でみんなと過ごしたい………か」
「………」
「え、私?」
「………」
「私も同感や。こんなけったいな所で、永遠の命なんかコッチから願い下げや」
 その言葉に、芹香は微笑みつつ頷いた。
「でもまぁ、アレやなぁ……」
 智子の含みを持った視線。
「どっちにしたかて。芹香さんは、永遠の命を貰う資格、あらへんからなぁ」
 その言葉に。
 芹香は顔を真っ赤にしながら俯いた。
 
(終わり)